ヘソ曲がりの与太: 爆笑王

2008年12月16日

爆笑王

 初期のテレビっ子である以上に、私は山奥の田舎育ちだからラジオが重要な意味を持つ。テレビはあったが、それは茶の間に鎮座するもので、子供チャンネル権などは無かった時代である。

 今や「伝説の爆笑王」と冠される落語家の爆笑ネタをテレビで見ながら、まったく笑えない子供時代を思い返す。

 林家いっ平が林家三平の名跡を継ぐ。林家三平はいっ平の父親であり昭和の爆笑王と呼ばれていた。ところが子供心に林家三平のどこが面白いのか、実は私にはサッパリ分からなかった。

 NHKのラジオでは、夕方頃に落語や漫才、浪曲、講談などを放送する番組があった。内容的に当時放送しても差し支えのない内容のものは多く放送されていた。考えてみると今では考えられないほどの名人が登場していたのである。都々逸などもこの放送で知ることとなる。それ以外にも「とんち教室」などの番組もあって、そうした番組を聴いて育ったわけである。

 だから落語は古典落語が主流で、その内容が面白く、江戸時代の裏長屋の風景などを想像しながら、八っあん熊さんなどの生活を頭の中に思い浮かべて楽しんでいた。落語はそうした日常の世界に、落ちという異化効果を付け加えるからこそ、その落差が面白さを生む。こちらが頭の中で想像していた世界が、見事なまでに滑稽な形でひっくり返されるという面白さで、それが楽しく笑えた。「時そば」などの演目から、現在の午前と午後の12時を九つということも覚えた。時代小説を読む時も、そうした落語が描写する「江戸」が念頭から離れずにいる。

 林家三平の芸は、そうした従来の落語の書式とは違うものであり、例えば今の芸人でいえばFUJIWARAの原西が繰り出すギャグの連発に近い。三平の笑いを生み出す日常は、つまり我々の普段の日常であり、そこに異物として飛び込む三平自身の異化効果による笑いだろう。そこには物語性が無い。いや、我々の日常が物語り世界として存在するという前提に拠る笑いである。

 だからだろうか、私には林家三平がちっとも面白くなかったのである。失笑はしても爆笑には至らないという感覚がある。原西のようにほとんど客席を無視したテレビ的とも言えるナンセンスでスラップスティックな世界に徹底していれば良いのだが、三平の芸は背景として落語がこびりついていて、客席とのコミュニケーションが意味を持つようなものが多い。落語でいえば枕の連発とでもいう客いじりが多いのである。観客を無視するほど徹底したナンセンスやスラップスティックにまで至っていないわけで、寄席中継などで演じられるその芸は、客席にいないテレビの向こう側の存在としての林家三平と私の障壁となってた。

 遙か彼方からの姿を見て、何も語らずにギャグだけを連発するような、しかもその場にいる観客との場の共有の上にだけ成り立ち、しかも多くの落語のような物語性が創出されていない芸は、テレビというメディアのこちら側にいた私には「何が面白いのか分からない」状態だったわけだ。だから、森田拳次の漫画「丸出ダメ夫」の台詞で「やっぱり三平は面白いや」などという台詞が出てきても、まったく共感できなかったのである。これは多分、寄席で生の林家三平を見た森田拳次という漫画家と、遙か1千キロも離れた北辺の地でブラウン管を通してしか林家三平を見ていない人間の違いだろう。

 私は芸というのは、まず第一に「場」を作り上げるものであると思っている。林家三平の芸は、寄席という場に来場した人に対する芸であり、その寄席という場を知っている人に供する芸だったのだろうと思う。その「場」を共有している人間にはたまらなく面白いのだろうが、私のように地方で生まれ育った寄席という「場」の共有経験の無い子供にとっては、三平の生み出す世界に対して疎外感しか持てなかったわけだ。つまり「何処が面白いのか分からないし、それどころではなくつまらない」のである。

 落語の面白さが分からないという人もいる。落語には洒落も多い。洒落は音が同じで全く違う意味の言葉を掛け合わせるような形であるから、音だけ聞いて即座に複数の言葉を思い浮かべる事ができなければ、そしてその意味が分からなければ面白くないだろう。言葉遊びであるから、言葉をある程度知らなければ楽しめない。物語性の中で、登場人物の概要が描かれながら、例えばバカの与太郎が思わぬ知識を披露したり、知ったかぶりをしている大家を煙に巻くという場面などが笑いのツボとなったりする。

 ラジオで聞こえる話術だけで子供を引き込む力、つまり言葉の力だけで聴視者に対して世界を構築する力を、かっての名人は持っていたのである。それは落語だけには限らない。講談も同様だし、浪曲だって同じである。つまりは言葉の持つ力を、話術という芸で具体的な物語を構築して聴く側に提供できたのである。しかも遠く時代を遡る江戸時代などの庶民生活の一端を切り出すわけだ。

 果たして今の落語家のどれほどの数が、身振り手振りを見せることができないラジオという制約された場で、人に笑いを提供できるのだろうか。
posted by たまどん at 22:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 能書き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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