ヘソ曲がりの与太: 小説との出会い

2009年01月06日

小説との出会い

 私が小説と出会ったのは、講談社の少年少女世界文学全集である。全50巻のこのセットは、専用の木製書架などもあって、寝る時間を削って読みふけったものである。

 エドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人事件」、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ「緋色の研究」、ケストナーの「飛ぶ教室」「点子ちゃんとアントン」、ヴィルドラックの「ばらいろ島」、ベルナの「首なしうま」(1963年にディズニーで映画化されたはずだがDVDなどにはなっていないようだ)、モルナーレの「パール街の少年たち(これが原題の正しい邦訳で、別の出版社では赤シャツ団などという邦題で出版されていた)」などが記憶に残っている。もちろん、ヴェルヌの「海底二万哩」は外せないのだが。

 とにかく、古典やらイソップの教訓話、各種童話、SFなども含め、その内容はバラエティに富んでいて、しかも翻訳なども質が高かったと思う。子供向けだからと言って手を抜いていない。むしろ子供向けだからこそ、言葉の使い方に気を配っていて、絢爛な美文ではないが、内容の理解を容易にしながら味わい深い翻訳がなされていた。

 日本の小説は主としてポプラ社の新日本少年少女文学全集である。全40巻。こちらはルビは振ってあるが、夏目漱石や森鴎外なども含まれていて、仮名遣いこそ新しいものにされていたが、それでも本文はそれほど損なわれない形のものだった。子供には難しい言葉や言い回しがそのままだったのであるが、読み進むうちに何となく言葉の使われ方で意味を忖度できた。

 エクトール・アンリ・マロの「家なき子」と、国分一太郎の「鉄の町の少年」の二つに共通するのは「不公正」である。「家なき子」の前半の労苦と最期のハッピーエンドの乖離は、子供ながらに「そんなハッピーエンドかい!」と突っ込みを入れたくなったし、「鉄の町の少年」では権力が自分たちの作った規則を自分たちの都合の良いようにねじ曲げる姿に激怒した。ヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」は「ああ!無情」として抄訳となったものを読み、よく分からない世界だったわけだが、後年完訳を読み、その時代、市民革命が起きる背景としての不公正を描いているのに感慨を新たにしたのである。

 シャミッソーの「影をなくした男」もこの全集で読み、その内容の不可解さに子供ながらに大いに驚いた思い出がある。これを読んだためか、後にカフカなどを読んでも、それほど内容に疑義を見いだすことはなかった。自然と物語世界へ順応するすべを知ったことで、その不条理さについて過剰に反応することもなく、ただ心の中のモヤモヤはモヤモヤのまま読み進めたわけだ。

 名作と呼ばれる作品の多くは、子供時代に一応の目を通しており、抄訳だけの翻訳もので粗筋は知っていたりする。しかし、例えば多くの「ドリトル先生」シリーズを翻訳したのが井伏鱒二のような文豪だとなると、子供向けとは言え油断も隙もないのである。単純な子供向け翻訳というわけにはいかない。たとえ井伏鱒二さんの名前が「看板だけ」だとしても、その名前があるだけでそうそう変な手抜きの翻訳はできないのである。「オズの魔法使い」だって講談社の全集には収録されていたのであるし、アジア編などでは「西遊記」や「ラーマーヤナ」なども抄訳が収録されていたのだ。

 私はこうした全集のおかげで本そのものが好きになっただけではなく、世界の多様性というものについても知らされた気がする。間接的な体験であり、肉体的な経験とはならないし、実感もないわけだが、それでも「違う習慣と考え方をする人達が世の中には存在する」という事だけは理解できた。

 世界を斜めに見る姿勢は、実は夏目漱石の「我が輩は猫である」に拠るところが大きい。世界文学全集を読んだ後に日本の文学全集を読んだためか、「我が輩は猫である」の世界観とひねくれた物の見方が容易に受容できたのである。矛盾と誤謬が生み出す人間の滑稽さを批判を込めて描いているこの作品は、「坊っちゃん」などの何も解決しない不公正が嫌いな単なる正義感で突っ走る青年教師の姿よりも、よほどリアリティを持って私を引き込んだ。あっ、だから石原慎太郎の「青春とはなんだ」を読んだ時に空疎さを感じたのか。

 宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」は好きだったし、その無国籍感が、何やら日活無国籍映画同様に、その背景を想像力で補うという必然を生み出していたように思うのだ。杉井ギザブローが劇場用アニメ化した際、主役を猫キャラにしたのには実は我慢がならなかった。映画の中で描かれたイメージよりも私が持つイメージの方が遙かに大きく、そのためイメージの矮小化であると感じたのである。これはホームズを犬キャラにしたテレビシリーズと同様に酷いものだと思うのだ。主人公が人としての悩みを抱えながら成長していく姿を、イソップ物語のように動物キャラクターを主人公にすることでイソップ並の寓話に変質させてしまう。自分の事ではなく、誰か第三者の事として置き換えてしまう。意味喪失の世界だけが広がる手法であると思うし、不遜でもあると思うのである。あのアニメを名作であると称している人、鑑賞しているだけだな。物語世界に入り込むという行為がなされていない。

 読書の楽しみとは、第一に自分が想像の世界で物語世界の住人となる事であり、その住人が明らかに自分と違う価値観で物語の中で動く事に対する自分との相剋を見つめることである。外挿法的自己確立と自己分析の手法とでも言おうか。その違いこそが面白いのだ。
posted by たまどん at 17:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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