ヘソ曲がりの与太: いちご白書をもう一度

2009年01月12日

いちご白書をもう一度

 この楽曲が嫌いだった。第一、あれだけベトナム反戦という意味を深く問う映画いちご白書」を、実に言葉の響きだけで単なるラブソングにしてしまった、その軟弱さに激怒したのである。それ以降、この歌を歌った連中の音楽は無視をしているのである。

 実はこの社会の出来事を個人的な内容に換骨奪胎し、内容の重さを稀釈してしまう世界が、団塊の世代が暴れ回った学生運動に嫌気がさしていた若者に、社会への目を閉じる風潮を生み出す。政治的無関心、社会参加への希薄さの根底なのだ。

 漢字を読めぬ総理大臣を直接「馬鹿総理」などと正しく言わずに「KY(漢字読めない)な総理」と隠語風に言う世界も同様だ。テクストだけが先行し、行間にあるコンテクストが読み取れない人も多い。つまり知の喪失がどんどんと進んでいるわけだ。言葉狩りなどは、こうした知の喪失が進んだ人に迎合することで、一見正論のように見えながら、本来ならば見せなければならない社会の不整合を覆い隠すという権力側にとって都合の良い作用を果たす。

 例えば差別である。差別用語をマスコミからパージする事によって、現実に存在する様々な差別が覆い隠され、均質で安全な社会という権力の見せる幻影が増幅される。実体は在日朝鮮人差別、部落民差別、障碍者差別、先住民差別など、この世に差別は満ちあふれているのに、差別用語をマスコミが使わないために、そうしたものが既に過去のものであるかのように多くの人は思ってしまう。

 こうした本質と建前が分離しているのに、それを均質化社会であると表するようなデマゴーグが、実は昨今のアニメーションの隠れたテーマにも見える。社会的に未熟な子供が社会的責務などよりも個人的な悩みを抱えながら世界の救世主となるかのような話である。世界を救う話と個人の恋愛で悩む話が等価として扱われるわけだ。

 しかし、実際はどうだろうか。ボスニア=ヘルツェゴビナなどのように東欧諸国で起こった内戦は、実はその個人でもなく世界でもない民族、あるいは宗教の対立だった。昨日まで仲良く遊んでいた幼なじみ同士が、そうした民族的基盤の上で情け容赦なく殺し合う。たとえ昨日まで仲良く遊んでいた友達でも、殺す事に対する躊躇いは、インタビューに答えた若者には皆無である。彼らは彼ら自身の中にある正義で戦っていたからだ。つまり戦争というのは、個人の感情などが入る余地がないほど、人間を一種のマシーンと化すものなのだ。それは殺さなければ殺されるという最大限の恐怖が、戦闘現場の論理だからでもある。そして、そうした緊張感の中に長く留まれば留まるほど、その兵士の精神は病んで行き、平和になった場合でもそうした暴力衝動が抜けきることはない。映画「ランボー」はシリーズが続くごとに変貌していったが、最初の作品ではこうした帰還兵が社会に適合できぬ状態を抱えて戦地から帰ってきたという点が主眼となっている。しかも、そうした帰還兵に対する国と市民の敵対的な目が、更に帰還兵を追い込んでいった姿を描いているのである。ベトナム帰還兵の中には、未だに人里離れた土地に住み、極力他人と関わらないように世捨て人生活をしている人物もいると聞く。

 直面するのが嫌になるほどの事実が山のようにあって、それに抗う事こそが正義だと信じられていた時代の、そうした思いを込めた映画が「いちご白書」なのだが、そうした本来の苦い味を味わうことは「いちご白書をもう一度」からは知ることができない。言わばゴーヤチャンプルーに大量の蜂蜜と砂糖とミルクを入れて「美味しいでしょ」と言っているようなものだ。元の味などはすっかり分からなくなっている。こうした食べ物が味覚音痴を育てるわけだが、「いちご白書をもう一度」は見事なまでに社会音痴を育成するため役だったのではないかと思うのだ。まぁ、権力を握る側にとっては、大衆はいつまでも愚民で居てくれた方が扱いやすいのだろうけど。
posted by たまどん at 13:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 能書き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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